二条城は京都で宿泊したホテルの真向かいにあり、道路を一本渡るだけで着くため、非常に便利でした。二条城は江戸時代初期の慶長8年(1603年)に創建され、初代征夷大将軍徳川家康が京都御所の守護および上洛時の宿所として築いたものです。現在の規模は、寛永元年(1624年)に三代将軍徳川家光によって拡張された後の姿です。
狭義には、二条城は江戸時代に築かれた城郭を指します。広義には、室町幕府第13代将軍足利義輝の居城や、織田信長が第15代将軍足利義昭のために築いた城も含みます。1573年、織田信長は挙兵して足利義昭を追放し、河内へ追いやった際にこの城を焼き払い、別の場所に二条御所を築いて後に皇太子に献上しました。また、豊臣秀吉が当初京都での居城とした「妙顕寺城」も「二条第」と呼ばれていました。現在一般に二条城と呼ばれているのは、徳川家康が築いた二条城(朝廷からは二条亭と呼ばれました)です。1867年(慶応3年)、第15代江戸幕府将軍徳川慶喜が二条城で「大政奉還」を行い、政権を明治天皇に返上しました。1871年(明治4年)、二の丸御殿は京都府庁舎となりました。1873年(明治6年)、二の丸を除く区域が陸軍省の管轄となりました。1885年(明治18年)、京都府の新庁舎が完成して移転した後、二の丸御殿の修理が行われ、1892年(明治25年)まで続きました。1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて、桂宮邸の本丸御殿が移築され、本丸御殿が整備されました。1915年(大正4年)、大正天皇の即位大典が二の丸御殿で行われ、南門や二の丸御殿の付属建物の増築工事が行われました。1939年、昭和天皇により宮内省に下賜され、翌年に「元離宮二条城」と改称されて一般公開されました。
外からもこの白い建物が見えます。東南隅櫓です。本来は四隅すべてに隅櫓があり、見張台や武器庫として使用されていましたが、1788年の大火で多くの櫓が焼失し、現在は東南と西南の2基のみが残っています。
チケットを購入すればここから入場できます。ここは正門で、東大手門とも呼ばれ、現存する門は1662年頃に建てられたと考えられています。
この看板には、二条城内にある様々な等級の文化財が列挙されています。
唐門は二の丸御殿の正門です。門の形状は格式を表しており、唐門は最高位の形式です。御殿に入る際は靴を脱ぐ必要があり、内部での写真撮影は禁止されています。二の丸御殿は南東から北西に向かって雁行するように6棟の建物が配置されています。内部には33の部屋があり、800畳以上の畳が敷かれ、徳川家の威厳を示す松、鷹、虎、豹などの壁画や、桜など四季の花々を描いた狩野派の絵画作品(複製)で装飾されています。
見学後は裏手にある二の丸庭園を散策できます。池の中央に蓬莱島を配し、左右に鶴島と亀島を配置した書院風庭園です。1626年の後水尾天皇行幸を迎えるため、作事奉行(江戸時代の土木建築を担当する官職)の小堀遠州の指揮のもと改修が行われました。巧みな設計により、二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から本丸御殿を眺めることができます。
内堀を渡ると、本丸御殿が見えてきます。現在の本丸御殿は、1893年に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を二条城の内堀沿いに移築したものです。現存する数少ない宮家住宅の遺構であり、日本政府により重要文化財に指定されています。本丸庭園は明治天皇の行幸の際に再整備されました。芝生の中を通る曲がりくねった小径や、庭園南東部の築山からは、四季折々の景色を楽しめます。隣には天守閣跡もあり、1750年に落雷で焼失したため再建はされていませんが、跡地からは本丸庭園全体を一望することができます。
一周見学し終えたら出口へ向かいます。途中に清流園とその中にある和楽庵があります。和楽庵では和菓子や抹茶を味わうことができ、雰囲気も非常に素晴らしいです。また、清流園は入園者にのみ開放されており、非常に趣のある庭園です。
出口近くには二条城障壁画展示収蔵館もあります。この施設では二の丸御殿の障壁画の原本が保管・展示されており、年4回、合計約240日間のみ公開されます。開館しているかどうかは運次第といったところです…。私が訪れた時は閉館していました…。














